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子供時代 |
相模原市内で育ちました。父は畳店を経営。
自営業は収入が一定ではなく、資金繰りに苦労している親の背中を見てサラリーマンを目指そうと誓う。 |
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学生時代 |
ホテル・ニューオータニでアルバイトに没頭。
結婚披露宴や各種パーティーでウェイトレスとして働きました。
時々芸能人やスポーツ選手に会えるので、ホント楽しかった~!
アルバイトを通して接客の楽しさ&サービスを学び、接客の仕事をしていく事を決意
㈱小田急百貨店に入社することになりました。 |
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小田急百貨店時代 |
入社後は町田店に配属となり、家庭用品・ご進物相談・婦人服売場を担当。
色々なお客様や先輩方と出会いまいた。
接客の中で、お客様からの「ありがとう」の言葉が嬉しくて、仕事に熱中!
特に婦人服部では新しい企画を提案を行い、仕事にやりがいを感じていました。 |
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外商部時代 |
婦人服部から外商部に異動。
お得意様の家を車で1軒1軒廻り、宝飾・時計・着物・寝具・お茶等、何でも訪問販売をしました。
当時、宝飾は年4回の販売会がりました。助手席に宝飾の営業担当を乗せ、1日中訪問販売をして回ります。宝飾は安い物でも20万円!高いものなら数百万円の物もありましたね~
売れたら嬉しいけど、売れずに肩を落として会社に戻ることもあり、ノルマに追われるようになっていきました。外書部の事務所には成績表が張り出されるので、プレッシャーは大きかったです。。。
それでも徐々にお客様に可愛がられ、少しずつですが売上が伸びていきました。
しかしデフレによる低価格指向&東日本大震災のよる買物自粛傾向により、会社自体の売上が低下しました。
売上アップ=単価アップという会社の方針で、外商部の宝石販売回数が年4回から6回に増えることに。。。
プレッシャーから低血圧になり、体調を崩すようになりました。
お客様から「ありがとう」と言われることがなく、逆に押売りのような販売方法に後ろめたさを感じるようになってしまいました。
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宅地建物取引士取得 |
ノルマに押し潰されそうなっていた時、知合いから「宅建(宅地建物取引士)を取ってみたらどう?」とアドバイスを頂きました。
元々物件の図面を見たり図面にレイアウトを作成するのが好きだったので、不動産会社に興味がありました。2LDKのマンションを購入した経験があったので、購入前にかなり多くの間取図を見てレイアウトを考えた経験がありました。
考えた末、宅地建物取引士試験に受かったら会社を辞めようと決意!
それからは仕事の合間や帰宅後に、ひたすら勉強に打ち込みました。
独学でしたが無事、一発合格!
24年間お世話になった㈱小田急百貨店を退社しました。 |
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不動産会社へ就職 |
知合いに紹介された鶴川の不動産会社に就職したものの、そこはデベロッパーでした。用地を仕入開発してから分譲するという内容です。
面接で営業希望を伝えたのですが、結局仕事は事務でした。
お客様と接する機会はほんどなく、お客様の役に立つ仕事を見つけることは出来ず。。残念ながらそれにやりがいを感じられませんでした。
お世話になった社長には申し訳なかったのですが、半年で退社。
紹介してくれた方にお詫びをしました。
すると「また次の会社に就職しても郡司さんなら同じだよ。サラリーマンである限り自分の都合の良いやりがいなんて見つからないよ。だったら起業してみたらどう?」と言われました。
起業。。。
親の苦労している姿を見て、安定した生活のサラリーマンを選んだ私。
今まで起業する事なんて考えたこともなかったけど、たった1度の人生、悔いのないように生きてみようと決意しました!
そして今度は千歳船橋の不動産&建設会社へ就職しました。 |
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開業に向けて実務を学ぶ |
新しく就職した会社は大家さんから依頼された部屋の募集を行う管理が行うのがメイン
先輩達の指導の元、賃貸&売買の実務を学びました。
定期的に管理会社として空室の巡回・清掃を行い、オーナー開拓にも取り組みました。
またお客様の接客を行い、満足されて契約頂ける喜びを感じました!
その間にお客様のお役に立てるよう、「FP2級」と「住宅ローンアドバイザー」の資格も取得しました♪
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平成26年2月開業 |
会社名は代表が女性ある事、そして代表の私自らが責任者であることを宣言する為に、
私の名前「ミカ」から「ミカハウジング」と名づけました。
お客様から1つでも多くの「ありがとう」の声が聞けるよう努力していきます。
お客様の立場になって、新しい生活のサポートをさせて頂きたいと思っております。 |